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初めてのホツマツタヱ天(あ)の巻 | 初めてのホツマツタヱ地(わ)の巻 |
初めてのホツマツタヱ人(や)の巻 | 秀真伝(ほつまつたゑ)にみる神代の真実 |
ホツマツタヱとは、オオタタネコが編纂し第12大景行天皇に献上されたものです。
日本書紀が生まれたのは、物部氏が蘇我氏の仏教を取り入れるのに反対して戦い、負けてから78年後、そして白村江の戦いが終わって57年にできています。明治維新を物部氏が滅んだ時とすれば、その78年後に白村江の戦いで日本が支那に負けています。また、その57年後に「日本書紀」が生まれています。
明治維新から77年後に大東亜戦争で負けています。物部氏が滅んでから78年後に白村江の戦いで負けています。
白村江の戦いが大東亜戦争とすれば、その前77年・78年前には文明を変更しているわけですね。
また、「日本書紀」は白村江の戦いの57年後なので、大東亜戦争を白村江の戦いだとすると、その57年後だと2002年になります。
もし今、日本史を書くとどうなるか?
大東亜戦争で日本が米国に破れてから、米国が日本に対して何をしたか。
日本語を変更しようとしたわけですね。また日本語を書く文字をローマ字化しようともしましたね。そして、焚書も行いました。
白村江の戦いの後で何が合ったのか?
大東亜戦争後に米国が何を行ったのかを見れば、白村江の戦いの後で支那が何をしたかは明らかでしょう。
支那はそんなことをしていないだろう!!!
と思っている人もいるかもしれませんが、当時の奈良の都には、人口の三分の一が外国人だった!!!
とも言われています。
大東亜戦争後のアメリカの戦いの後よりも大変だったかもしれないわけです。
だから今歴史を書くと、当然大東亜戦争以前の社会は住みにくい窮屈な社会だった!と書かれても文句はいえませんね。だから、白村江の戦いの後の「日本書紀」では、日本には文字がなかった!と書かれても文句を言えなかったんでしょう。
もちろん当時は書籍は少なかったと思われるので、焚書が行われれば数が少ないので、めぼしい書物はなくなってしまったと思われますね。
だから、日本書紀を正しい歴史が書かれた書物とは思わないほうが良いでしょう。
焚書から逃れたと思われる「ホツマツタヱ」のほうが、正しい歴史が書かれた書物だと思われます。
「初めてのホツマツタヱ 天の巻
」はホツマツタヱ3部構成の中の「天の巻(1アヤ~16アヤ)」の現代語訳です。 |
「初めてのホツマツタヱ 地(わ)の巻」
はホツマツタヱ3部構成の中の「地(わ)の巻(17アヤ~28アヤ)」の現代語訳です。 |
「初めてのホツマツタヱ 人(や)の巻」
はホツマツタヱ3部構成の中の「人(や)の巻(29アヤ~40アヤ)」の現代語訳です。 |